臆病者の好奇心

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受け身という言葉に思うこと

2ヶ月ほど前に私は「他者依存的だった自分が、少しだけ主体的になれた経験」という記事を書きました。

kei-cafeandtravel.hatenablog.com

 

 

この記事の中で私は「過去の私は受け身で生きてきたけど、それがニューヨークのひとり旅をすることで少しだけ主体的になれた」と書いています。

 

 

最近この記事を読み返したのですが、私の中に違和感がありました。「受け身」という言葉に対して。

 

 

私は「受け身」という言葉を「過去の自分は敷かれたレールに沿って生きてきた」ことに対して使っています。人生の中の大切な決断をする際に、自分がやりたいことではなく世間一般ではこれが正しいと言われているからそうすれば大丈夫」という基準で選択をしてきました。私はこの状態を受け身だと思っていました。

 

 

 

ただ、今の私が読み返してみて感じるのは、受け身とはいえど選んだのは自分であるということです。さらに受け身という言葉の中には自分の人生を他人のせいにしようとしているニュアンスを感じ取りました。(あくまで自分の文章を読み返して感じたことです。)

 

 

 

昔の私は何かを判断する際に「自分がどう思うのか」よりも「一般的に正しいと言われていること」を重要視する傾向がありました。今でも正直抜けきれているとは言えません。学生時代までは正直それでも困らずに生きてはいけます。しかし、その状態のまま大人になって年齢を重ねるうちに色々苦労しましたし、今もしています。

 

 

その理由は、大人になって年齢が経てば経つほど一つ一つの選択の重要度が上がるからです。家族を持てば自分の選択が家族に影響を与えることもあります。結婚をしていなくても自分の両親や親族に影響を与えることもあります。結婚してようがしてなかろうが一つ一つの選択肢の重要度が高まるのは同じだと思います。

 

 

 

が、年齢を経るにつれて自分の選択が自分ひとりで完結しなくなっていくし、自分の老後に関わってきたりと重くなっていきます。これはどんな人でも変わらないと思います。また一般的には若い頃よりも選択肢も少なくなっていきます。

 

 

そうなると、大人になればなるほど選択する際に「自分がどう思うのか」が重要になっていくのです。どんな選択でも必ずメリットとデメリットの両方があります。また自分ひとりで完結しない場合は、その影響下にある人のことも考慮する必要があります。それらを全て踏まえると結局は「メリットもあるしデメリットもある」という結論に至ることが多くなるのです。デメリットがメリットよりも多ければデメリットを回避するという選択ができますし、メリットが上回って入ればメリットを選択するという行動が取れます。

 

 

しかし、こんな単純に行かない場合もあります。メリットもデメリットも半々くらいだけど決めなければいけないという状況に直面することも人生ではあると思いますし、大人になる程そういう選択に直面する機会が増えます。

 

 

そうなると最終的には、メリットとデメリットを踏まえて自分がどう思うのかを考えた上で選択をする必要が出てきます。つまり、最終的には自分がどう思うのかが重要な指針になるのです。「メリットもあるしデメリットもあるのは分かったけど、自分がこう思うからこういう選択をする。それによって生じたデメリットは自分で引き受ける」と思えるくらいじゃないと、いつまで経っても現状維持のままになります。

 

 

現状維持は、その時にはいい決断になるのかもしれませんが、物事というのは先延ばしにすると後で必ず同じことに直面します。一旦保留という決断も立派な選択ですが、その際は保留にする間に何をするのかであったり、どこまで環境などを整えるのかなどのゴールを決める必要があります。それを踏まえた上での保留という選択は正しいと思います。

 

そして、こういう選択ができるようになることが私は自分の人生を自分で生きるということだと考えます。自分で選択するまでの思考のプロセスを理解しておくことが一番重要です。

 

わたしは少し前まで、この状態は受け身と真逆だと思っていました。受け身とは、選択までの思考のプロセスを「世間一般的にこれが正しいから」という理由で省略して、ショートカットで答えを出すこと。この状態は自分の頭で考えていないことだし、良くないことだと考えていました。

 

しかし、今になって思うのは確かに考えることを省略してしまっている部分もあるけれど、結局決めたのは自分自身じゃないかということです。当時の私の価値基準が世間で正しいと言われていることであったにせよ、最終的には私自身もそれが正しいと思ったんです。そこにはおそらく、自分の中で自動化されて普段中々気がつかない思考のプロセスがあるのではないかと。

 

自分の頭で最初から最後まで考えた上で自分はこう思うという結論を自分の中で出さず、判断の根拠を世間の価値観にしてしまっている点では確かに受け身的なのかもしれません。世間の価値観を疑うことがないのであれば。

 

しかし、最終的には自分もそれが正しいと思ったから選択をしているのです。結局自分でその価値観が正しいか正しくないかを判断しているのであって、どんな人も何も考えていないのではありません。自分の意思でそれを選んでいるのです。受け身的であっても。

 

 

わたしは過去の自分が受け身で生きてきたと思い続けてきたのは、自分の選択の結果に責任を持ちたくなかったからなのかもしれません。だから自分の過去の選択は受け身的だったと表現していたのかもしれないのです。

 

 仮にどんなに周りからの圧力が強くて、その圧力に対抗できずに不本意な選択をさせられたとしても、周囲に対抗せずに受け入れるという選択をしたのは自分自身。

 

受け入れる以外の選択肢もあったはずです。逃げるとか。でもそれを選ばずに受け入れることを選んだ時点で自分で選んでいます。

 

他人は自分の人生の責任を取れません。だから、「お前がああ言ったからそうしたのに、お前のせいでこうなった」と相手を責めることはできても責任を取らせることまではできません。だって、人は自分の人生にしか責任を負えないものだし自分で選んだのだから。

 

 

 

私の2ヶ月前の記事を読見返して見て、自分の過去の人生の責任を他人のせいにしようとしている甘えを読み取りました。過去の私が上手くいかず悩んできたのは周囲のせいだと思っているニュアンスも感じ取りました。自分で責任を取ることが怖かったのかもしれません。

 

 

でも私にとってそれの何が一番問題かというと、その考えのままだと過去の自分を肯定できなくなるんです。うまく行ったことも悪い結果で終わったことも、他人のせいにしようとすると自分の人生に対して文句を言うようになります。「私があの時失敗したのは誰々のせいだ」ということになりますし、うまくいっても「あの時うまくいったのは誰々が何々をしてくれたからだ」という思考になります。いいことが起こっても喜ぶという反応よりも「たまたまでしょ」という反応になって喜べなくなってしまうし、失敗すると自分の中で受け入れたくない恥ずかしい過去になってしまいます。そうすると自分の人生を受け入れられなくなってしまうんです。いつまで経っても、「自分はこんなになるはずではなかった」となってしまいます。

 

 

 

 

ニューヨークに行けばもう少し自分は変われるのかなと思っていましたが、2ヶ月前の記事のように過去の自分と同じ考えをし続けていたことを実感し、自分の変わってない部分が見えてきて少し落ち込みましたが人間こんなもんなのかもしれません笑

 

 

でも、その自分の変わらない部分というのはひとり旅をして見ないと分からなかったことです。行動をして変わった部分もあれば変わらない部分も見えてきます。何度も何度も行動してると毎回同じ自分の変わらないことに直面させられて嫌になることもあります。でも、その変わらない部分こそ自分の大切な一部であり、大切にすべき点なのかもしれません。

 

 

それを気付かせて貰っただけでも、旅をする意味は大いにあるのではないでしょうか。